グイノ・ジェラール神父の説教
A 年
特別な祝日や祭日
聖人の祝い
聖家族の祝日
主の公現の祝日
主の洗礼の祝日
主の奉献の祝日
聖ペトロと聖パウロの祝日
聖家族A年 2013年12月29日 グイノ・ジェラール神父
シラ書 3,2-6、12-14 コロサイ 3,12-21 マタイ 2,13-15、19-23
今日私たちの眼差しは聖家族の上に注がれています。 カトリック教会は、19世紀の終わりに聖家族を模範として全ての人々に与えることを決めました。 当時ヨーロッパの家庭制度は重大な危機に立ち向かっていたからです。
真似ることのできないこの聖家族はとてもユニークです。 ヨセフはイエスの父ではないし、母マリアは出産の後でも、まだ童貞であり、更にイエスは神の子です。 ですから、イエスとヨセフとマリアを見て私たちが真似るものは、ただ彼らの信頼で満たされていた従順、しかも直ぐに実現された従順だけです。 いくら神の願いが自分たちの立てた企画に逆らっていても、イエスとヨセフとマリアは神の呼びかけにすぐ答えるようにずっと覚悟していました。
また彼らが示す従順は謙遜で満たされています。 確かにマリアは「主のはしため」(ルカ1,38)です。 ヨセフは、マリアの内に神が行い始めた救いの計画を危くしたくない正しい人です(マタイ1,19)。 そしてイエスは心の「柔和で謙遜な者」(マタイ11,29)として「両親に仕えています」(ルカ2,51)。
この不思議な家族を通して神は私たちを救うことを決定しました。 神はマリアとヨセフにご自分の子イエスを委ねました。 この独り子は永遠の昔から「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです」(ヘブライ1,3)。 一方、ヨセフとマリアはすべてを神からいただいています。 他方では、彼らは自分たちのために何も持たないように召されています。 と言うのは、マリアとヨセフは自分たちの人生の内にイエスを受け入れますが、それはイエスを私たちに与える為です。 彼らが私たちにイエスを捧げ、引き渡す姿を世界中の芸術家たちが残したすべてのマリアとヨセフの像と絵が、それをはっきりと見せています。 イエスは自分たちに属していないことや、世を救うためにイエスが全人類に与えられた贈り物であることを、マリアとヨセフはよく知っているからです。
いくら聖家族を真似ることが出来なくても、彼らの波乱に富んだ生活を通してイエス、ヨセフとマリアは私たちの模範です。 聖パウロはコロサイ人への手紙を通して、自分の家庭と属している共同体の中でキリスト者が持つべき態度について教えています。 「あなたがたは神に愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3,12-13)と。
確かに、これこそ私たちが自分たちの家庭と共同体に、互いに与えなければならない証しです。 私たちのすべての出会いが、自分の内におられるイエスを成長させなければなりません。 私たちが洗礼を受けた時に、自分の内にイエスを育てる為に神は私たちにキリストの体を委ねられました、丁度かつて神はマリアとヨセフにイエスを委ねたのと同じように。 私たちは神の家族となったので、世界の人々によく育てられたキリストを与えなければなりません。 私たちはキリストに属していますが、キリストは私たちが所有する者ではありません。 私たちは信仰を宣言し、キリストに従いながら、周りにいる人々がイエスを歓迎し受け入れることを可能にします。
聖家族と同様に自分たちの家庭に、また自分たちの共同体に、私たちが持っている最も貴重な宝物を新たにされた心で受け入れること、そしてそれを他の人々と分かち合うことを覚悟しなければなりません。 この宝物とは、真の人間、真の神であるイエスご自身です。 すべての人の救いのために平和、赦し、愛と永遠の命であるイエスご自身です。 アーメン。
主の公現 A年 2014年1月5日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ60,1-6 エフェソ3,2-3、5-6 マタイ2,1-12
クリスマスの日にイエスを礼拝するために私たちは、ベツレヘムの馬小屋まで羊飼いたちに従いました。 今日、イエスを探しも求める占星術学者に従うように、私たちは招かれています。 カトリック教会は、クリスマスを特に大切に祝います、一方、東方教会は主の公現の方を大事にします。 実際に全てのキリスト者は、世の光、そして救い主としてご自分を示すイエスを祝っています。
昔王様たちが街を訪れていた時、人々はそれを“王様の公現“と呼ぶ習慣がありました。 主の公現は、「ご自分の民を訪れる方」(ルカ1,68)を祝っています。 主の公現とは、私たちの間に現れた神の栄光の現れです。 この現れは、イエスの生涯の3つの時を通して、明らかに示されています。 それは、占星術学者の礼拝、イエスの洗礼、そしてカナの婚礼です。 東方教会の信者たちはこの3つの祝いを一度に祝います。
珍しい星によって示された神の救いの計画に応える為に、占星術学者たちは出発しました。 イエスの誕生の最初の証人となるこの異邦人たちは、私たちに3つのことを教えています。 先ず、神を探し求めること、第二に神を礼拝すること、第三に自分が持っている最もよいものを神に捧げることです。 間違えてヘロデ王のところでイエスを探し求めた占星術学者と同じように、私たちも探す方向を間違える可能性があります。 しかしながら、神は私たちに伴うので、ご自分の言葉と目に見えるしるしによって、本当にどこにおられるかを私たちに必ず教えられます。
神が通らせる道はいつも礼拝の道です。私たちが霊と真理を持って礼拝するように招かれています。 「なぜなら、神はこのように礼拝する者を求めておられるからです。」(ヨハネ4.23) この礼拝によって、私たちは自分のうちにある一番良いものを神に捧げるように導かれています。 それは、私たちの愛の黄金、私たちの祈りの乳香、そして私たちの謙遜の没薬です。
神と出会った人は以前のように生きることが出来ないので、占星術学者たちは別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。 ミサに与る度に、私たちは本当に神と出会っているので、私たちは絶えず新しくなる必要があります。 信仰は足踏みを赦しません。 お互いの愛と証しの道に、改めて神を探し求めるように信仰が私たちを押し出します。
ところで何処で神を見つけるでしょうか? 占星術学者たちは幼子の姿を通して神を見つけました 。たぶん、私たちも探しに行って、弱い人々、貧しい人々、愛を慕ってる人々の姿を通して神を見つけるでしょう。 預言者エリヤはそよ風の音の中に神を見つけました(1列王19,12-13)。 確かに、聞き分ける心の祈りの中に、特に沈黙の内に人は神を探し見つけるのです。 占星術学者たちは「命のパン」を意味するベツレヘムの村でイエスを見つけました。 私たちは聖体とみ言葉のパンのうちに実際におられる神を見つける揺るぎない確信を持っています。
ご存知のように水を飲みたくないロバに水を飲ませるために、渇いているもう一頭のロバをそのロバの傍に置くことが必要です。 そうすると飲みたくなかったロバは、一生懸命に水を飲みます。 神への渇きを失った人々にそれを取り戻すために、私たちは同じようにしなければなりません。 神への渇きを持っている謙遜な者になれば、きっと他の人々も同じように神を慕うことになります。信仰が与える希望が、私たちの心を満たしますように。 そうすれば、この新しい年の初めに当たって、私たちの人生に一年を加えるよりも、神と兄弟姉妹を歓迎することによってこの年に神の命を加えましょう。 アーメン。
主の洗礼A年 2014年1月12日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ42,1-4、6-7 使徒10,34-38 マタイ3,13-17
イエスの洗礼はキリストの神秘の啓示です。 キリストの洗礼の時、クリスマスのように天使たち、羊飼いたち、輝いている星、占星術学者が全くいませんでした。 しかし、イエスのうちに実現している神秘を現すために、天が開いて聖霊がイエスの上に降っています。洗礼を受けたことによって、イエスがすべての罪びとと一致して、彼らの苦難を分かち合います。 同時に聖霊で満たされているイエスは、私たちを神の愛する子供とするのです。
罪のないイエスは、全人類のすべての苦難を背負いながら、私たちにしがみつく悪を根源から滅ぼすために来ました。 罪びとの私たちに対して憐み深いイエスは、私たちを救い、贖い、ご自分の父なる神と和解させるために来られました。 「正しいことをすべて行うべきです」とイエスは言いました。 私たちと同じようになることによって、アダムの罪で奪われた神の子としての尊厳を、神は私たちに取り戻します。 私たちが神によって、神のうちに、神と共に生きることを可能とするように、どうしても神の最初の計画を実現する必要性があったからです。 ヨルダン川の水の中で行われたイエスの洗礼は、私たちを神の親密さの中に入り込ませます。 自分の救い主としてイエスを認める人が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者です」と天の父が宣言することを聞くでしょう。 この貴重な言葉を神は私たちの生涯に渡ってずっと繰り返します。 そして、私たちが神の永遠のうちに入る時、ようやくその言葉の意味を完全に悟るでしょう。
ベツレヘムの乳飲み子として神が人間になる時、そして次に、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授ける時、私たちに啓示されたものは 父と子と聖霊の神秘です。 キリストの名によって洗礼を受けた私たちも、自分の心の奥底に「アバ、父よ」という聖霊のささやきを聞くでしょう。 確かに私たちは神の養子であり、神の愛する子供であります。
主の洗礼の光のうちに入るためには、私たちに授けられた洗礼のために、まず私たちは神に感謝しなければなりません。 イエスの名によって、聖霊の力を通して、父なる神が私たちの内に実現する愛と救いの神秘について考えざるを得ません。 私たちの罪や惨めさや相応しくない状態にも拘らず、私たちが今も、いつも、永遠に、この神の愛の内に留まるように招かれています。 というのは、洗礼を受けた途端、私たちのためにも天が開かれて永遠の命が私たちのうちに湧き出し始めました。 しかし、私たちはいつまでも神の愛の海原の岸の前で立っています。 なぜなら、私たちに対する神の神秘を完全に悟るには、永遠の時間を使っても足りないからです。
神が私たちを愛していることを信じているでしょうか?私たちは神の愛する子どもであることを信じているでしょうか? 私たちがイエスにおける信仰を宣言することに誇りを持っているでしょうか? 私たちはキリストの弟子と同時に証人として選ばれたことの幸せを感じているでしょうか? 本当に私たちが聖霊の喜びで満たされているでしょうか? 私たちは神の忠実な礼拝者でしょうか? 私たちの心が賛美、感謝、歓喜の歌で溢れているでしょうか? このすべての質問に「正しいことをすべて行うように」私たちは正直に神の前で答えなければなりません。 アーメン。
主の奉献の祝日A年 2014年2月2日 グイノ・ジェラール神父
マラキア3,1-4 ヘブライ2,14-18 ルカ2,22-41
「ローソクの祭り」とも呼ばれている「主の奉献の祝日」は、最初はローマ時代の光に関係する異邦人の祝い日でした。 その時、清めのしるしとしてローマの国民は真夜中にローソクを灯す習慣がありました。 また、j碑文の家に帰ってから、古代ローマの人々はクレープをご馳走する習慣がありました。 ラテン語の言葉「februar・フェブルアー」(英語のfebruary)は“清め”を意味します。 イエスが世の光であることを思い起こすために、5世紀の教皇ジェラスはこの祭りを利用して乙女マリアの清めの祭りに変化させました。
ヨーロッパでは、この日の朝まだ暗い内にキリスト者は、ミサの時に祝福されるローソクを持って教会まで行列します。 ミサ後、信者たちはこのローソクを持って帰ります。 ローソクの光は、家と人々を守ると信じているからです。 また、この日に当たって信者も信者でない人々も皆クレープのご馳走をします。 クレープはローマ時代の人々が考えていた地球の形を現わしています。 教皇ジェラス自身もミサ後ローマを訪れた巡礼者にクレープをご馳走する習慣がありました。 このように主の奉献のローソクやクレープが、イエスはこの世の光であることを思い起こさせます。
東方教会では、主の奉献は「ヒパパンテ」と呼ばれ、「迎えて出会う」という意味です。 この言葉で東方教会はシメオンとアンナがキリストを迎えに出たことを思い起こさせようとしています。 東方教会の信者たちはこの「ヒパパンテ」を通してご自分の約束を実現する為に神がイスラエルの民と出会ったことを強調します。
確かにマリアの清めの為にイエスの両親がエルサレムの神殿に行ったとき、イエスとその民の最初の出会いが実現されました。 自分の腕にイエスを抱くシメオンは、あっと言う間に聖霊に照らされて預言し始めます。 シメオンはあらかじめ聖霊が彼に告げたように、確かにイエスを見ましたが、それ以上のものを見、特にイエスがいつか全ての国のために実現する救いをはっきりと自分の目で見ました。 「私の目はあなたの救いを見ました」とシメオンは断言します。 彼はイスラエルの解放を待ち望んでいましたが、神は世に与えられている救いをシメオンに掲示しました。自分の期待がはるかにみたされたので、 従ってシメオンは他のものを見たくありません。 神の救いを他のものと比べるなら すべてが空しいことだとシメオンは悟りました。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてください」とシメオンは神に願います。
誤解されたこの言葉とまた「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という言葉のせいで、シメオンは非常に死の時に近い者であり、年寄りであると人々が信じてしまいました。 聖霊は、シメオンが生きている内にメシアを見ることだけを約束しました。 決して、年寄りになってからメシアを見ることを約束したのではありません。 シメオンはきっと若い人です。 この出来事を宣べている聖ルカは、聖マリアが彼に打ち明けたことしか書きませんでした。 若い時に神殿の中で生活したマリアは、神殿に度々訪れた人をよく知っています。 マリアは預言者アンナを詳しく良く知っています。 彼女と話合いながらマリアは、アンナから様々の役に立つ勧めを受けました。 しかし、シメオンに対しては、マリアはあまり細かいことを聖ルカに教えずに、ただシメオンは聖霊で満たされた正しい人だったことだけを伝えました。 もし、シメオンが年寄りの人であればマリアも、全てを良く調べた聖ルカも、それを伝えた筈です。
聖霊で満たされているアンナとシメオンは、神のご託身(神が人間になったこと)の証人となって、聞きたい人々にこの神秘の偉大さを宣言します。 私たちは今日、平和、喜びと光をもたらすこの神秘を祝っています。 永遠の命の光であるイエスは、罪と死の暗闇の中に沈んでいる私たちの世界を救う為に来られます。 マリアとヨゼフと共に啓示されているこの愛の神秘の前で、私たちも驚きましょう。 シメオンと預言者アンナと共に、救いの神秘の証人となって、神がイエス・キリストを通して実現する救いのみ業を、私たちの周りに宣言しましょう。 主の奉献の祝日は宣教的な祝いです。 聖霊によって私たちは光の証人となりました。 光であるキリストは、私たちを清めました。 ですから、キリストを迎え、出会って、自分の内に受け止め、そしてキリストと共に、周囲にいる人々を信仰の光で照らしましょう。 可能性があれば主の奉献を楽しく祝うために、クレープのご馳走をしましょう。 アーメン。
聖ペトロ 聖パウロの祝日 2014年6月29日 グイノ・ジェラール神父
使徒12,1-11 2テモテ4,6-8、16-18 マタイ16,13-19
今日私たちは教会の柱となったペトロとパウロの祝日を祝っています。 この二人を祝いながら彼らがどんな人であったか、そして何を行ったかを思い出しましょう。 何故なら、彼らのことを思い巡らすことで、良いものを取り出し、出来ればペトロとパウロの生き方を真似るためです。
ペトロは良く知られています。 ヨナの息子シモンはキリストの弟子となるために最初に呼ばれた人です。 イエスはペトロと言うあだ名を彼に付け、彼に全ての弟子たちの責任を委ねました。 ティベリア湖の漁師で彼は激怒しやすいですが、自分の間違えをはっきり認める人です。 復活されたキリストの証人としてローマでの殉教の時まで、ペトロはイエスに授かった使命を忠実に実践しました。 皆さんもご存知のように、ペトロはバチカンの丘で十字架に付けられました。
トルコのタルソス生まれのパウロは、ローマ皇帝の市民権を持っています。 ファサイ人であり、優れた教育を受けたパウロはヘブライ語、アラム語、ラテン語、ギリシャ語を流暢に話します。 彼はエルサレムで当時一番評判が高かったガマリエル先生に勉強を習いました。 パウロは怒りぽっく、彼と共に生きることは確かに難しいことでした。 キリスト者の迫害者であったパウロは、ダマスコへの道で復活されたキリストと出会います。 回心してのちパウロはたえず国から国へ福音宣教を宣べ伝えます。 パウロは自分自身を「異邦人の使徒」と呼びます。 様々な試練や無理解やユダヤ人たちの強い反発を通してローマでの殉教の時まで、パウロはキリストに対する忠実さを証ししました。 ローマの外れの「三つの泉」と言われたところでパウロは首を切られました。
聖霊の力の内にペトロとパウロは至るところで、キリストにおける信仰を宣べ伝える責任を持っていました。 「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(1コリント9,16)とパウロが言います。 また「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいます」(2テモテ4,17)。 ペトロとパウロは大勢の信者の共同体の創立者でありましたが、彼らがその共同体の土台でないことをよく知っていました。 確かに全ての共同体の土台はキリスト自身です。 パウロはコリント教会の人にこのように書きました。 「あなたがたはめいめい『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』と言い…キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。 パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。 あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」(1コリント1,12-13) そしてまたパウロが断言します。 「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3,11)と。 これに対してペトロも同じように書きました。 「主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた要の石なのです」(1ペトロ2,4-7)。
復活の日イエスは、ペトロと全ての弟子たちに「繋ぐこと」と「解くこと」の権威を与えました。 「繋ぐこと」は、繋がりを作ることで、即ち人々がお互いと神とに関係があるように努力することです。 「解くこと」は、人の自由を妨げることを解放することです。 ペトロとパウロは、罪を赦し、病気を癒し、死から人を救うことによって出会った人々が神と繋がるまで諦めずに働きました。
しかし、ペトロとパウロは時々共同体の一致を守るために繋ぐ権威を使い、人を追い出しました。 このようにコリントの教会の人々にパウロは次のように書きました。 「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように裁いてしまっています。 つまりお母さんを犯しているこのような息子を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。 それは主の日に彼の霊が救われるためです」(1コリント5,1-5)。 同じように力を持ってペトロはアナニアとサフィラを次のように裁きました。 「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。 見なさい。 あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。 今度はあなたを担ぎ出すだろう」(使徒5,9)と。
ペトロとパウロの祝日に当たって、キリストの教会が全人類の解放のためにたえず働くように祈りましょう。 信仰の証しによって、そして兄弟愛との分かち合いによって、全人類が神に結ばれて救いの喜びを深く味わいますように。 そして私たちが「信仰の遺産」を守り、キリストに忠実でありながら、他の人々と自分の才能と必要ならば自分の持ち物を分かち合うことが出来るように、聖ペトロと聖パウロの執り成しを願いましょう。 アーメン。
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